四国お遍路 その6(9月)
Shikoku Ohenro 6(March)

四国お遍路 その1(3月)
四国お遍路 その2(4月)
四国お遍路 その3(5月)
四国お遍路 その4(6月)
四国お遍路 その5(8月)
四国お遍路 その6(9月)
四国お遍路 その7(11月)
住職の体験談

 

9月22日

杉並木を通り過ぎ、大宝寺迄後5キロ。
まだ暗いし山道なのでゆっくりあるきます。

大宝寺下のいつも寄る売店に入ると、奥さんが「朝ご飯は食べたの? 」と聞かれたので、「未だです。」と答えると温かいご飯に味噌汁、漬物を出して下さいました。
御主人の姿が見えないので尋ねると、体調が悪いとの事。私は霊媒師であり、加持祈祷師あることを伝え、御加持を施し錦の納め札をお守りとして開眼して、いつものお接待のお礼としてお渡しし、帰りに今一度加持する事を伝え、大宝寺へと向かいました。 大宝寺は文武天皇の勅願により建てられ、その時の年号をとって大宝寺と名付けられました。

迫割行場 大宝寺を出て勾配のきつい八丁坂を上り、岩屋寺手前の山頂に昔あった茶店跡を通り、八大童子 三十六童子の行場を通る時、この背割り行場があります。
山頂に白山大権現が安置されてます

お大師様がこの地に来られた時、お大師様の力を見抜いた不思議な神通力を持つ女の法華仙人が、大師にこの地を修行の場として差し上げることにした時、己の力を見せる為に大師に、峰と峰の間から教本を中空に投げていただき、其れを仙人は宙に舞い教本を掴み帰る時、岩山を突き抜け出来たのがこの行場です。
狭くて急な所を鎖を使い登ると、今度は狭くて急な梯子があります。其れを上り険しい横道を行くと、今度は少し幅の広い梯子がまたあります。
上がりきると畳2畳程の広さで岩の小山の中心に白山大権現が安置され、ぐるりは手で持つだけの細い鉄筋があり、其れに摑まり読経します。
危険な行場なので 寺が認めた先達が居ないと入口の鍵が貸していただけません。

 
 

岩屋寺山門。こちらが表山門です。
お大師様は霊場を開くときに、木造と石造の2体の不動明王を刻まれ、木造の不動明王を本堂に、石造の不動明王を岩山に封じて、山そのものを御本尊不動明王とされたのです。
それ故に、岩屋寺は建物は本堂より大師堂が大きいが、実は山全体が本尊であるため、我々は仏の体内に入り拝んでいるのです。

 
岩屋寺よりの帰り道

岩屋寺を打ち終えて、打ちもどりの途中にある国民宿舎古岩屋荘で、昨日よりの疲れを癒やす為と、今夜の寝る所を確保する為に温泉に入りました。
温泉の中で知り合った、九万町の小黒泰吉さんといわれる方が「今夜の宿はどこに泊まるの?」と聞かれたので、「野宿です、まだ時間もあるから九万まで歩き、大宝寺の下の土産物店の御主人の病気加持を約束してるので、其れを済ませてから寝る所は考えます」と答えると、「寝るだけなら俺の家に寝たら良いよ。俺は独り者だから。土産物店迄は後で迎えに行ってあげる」と言われたので、ありがたく御厚意に甘えました。小黒さんありがとうございました。

9月23日

午前5時、小黒さん宅を出発、三坂峠へと向かいました。
峠から下り中ほどまで来ると、大変珍しいものを見つけました。
何と其れはガマガエルです。前足の指が4本、後ろ足の指が6本。4、6のガマなのです。大道芸の「ガマの油売り」に出てくるガマですよ。

 

モッコに入れて、前後に担ぎ山裾迄運ばれました。

 

昼過ぎ、48番西林寺に到着。
西林寺は四国霊場の中で、唯一階段を下り山門に入る寺です。
「邪悪な心を持って山門に入ると、無限地獄に落ちる」と言い伝えられてます。
浄土寺を打ち終えて、50番繁多寺に辿り着きました。 繁多寺は朝早く御参りすると、近所の方々が雨の日でもラジオ体操をされてます。
16時過ぎ、51番石手寺に入りました。
石手寺には、四国遍路の祖と言われる衛門三郎の言い伝えがあります。
伊予の豪族で強欲な衛門三郎の門前に、ある日みすぼらしい托鉢僧が現われましたが、布施をするどころか追い返してしまいました。
日を変えて又托鉢僧が現われたので、衛門三郎は手にした鍬で托鉢僧が手にしていた鉄鉢を叩き落としました。
すると鉄鉢は8つに割れて飛び散ったそうです。衛門三郎には8人の子供が居たのですが、翌日より毎日1人づつ8日間しんでいきました。さすがに強欲な衛門三郎も大変悲しみ僧に対して大変無礼な事をしたと反省して、あの方こそ御大師様に違いない。逢ってお詫びしなければと、蓄えていた私財を貧しい人や寺に寄付して、わが身一つで御大師様の後を追い、出かけました。しかし八十八箇所を20回巡っても、御大師様には会えず、21回目12番焼山寺心身共に疲労し尽くして倒れてしまった所に御大師様が現われて、「悪人であったが懺悔して、修行したので罪は消滅した。依って授けるものがある」と言って小石に「衛門三郎」と名を刻んだ物を与えられました。間もなく衛門三郎は御大師様を拝みながら死にましたが、数年のち伊予の殿様に男の子が生まれました。しかし、この子は左手を握りしめたまま開かないので、安養寺に連れて行き祈念すると、たちどころに開き、「衛門三郎」と刻まれた小石が出てきたのです。人々は衛門三郎の生まれ変わりであることを知り、因縁の不思議を知り驚きました。
その時より安養寺は石手寺と名を改め、その小石は今も寺宝として残されているそうです。
17時7分、道後温泉到着。町はずれのビジネスホテル迄歩いて行き泊まる。
明日は午前5時発

雨にかすむ八坂寺山門
石手寺本堂
道後温泉からくり時計台前で

9月24日

午前5時ホテルを出る。
7時47分、太山寺到着。
太山寺には捻じれ竹の言い伝えがあるそうですが、次回にします。

円明寺には日本最古と言われる、銅の納め札があります。江戸の初めのものだそうです。米国のスタール博士が本尊の逗子の上に打ちつけてある銅版の納め札を見つけて、高く評価した事から、広く世間に知られる様になったそうです。
この日は、1日歩け歩けの1日で今治市大西で宿を取りました。

25日、今朝は宿で食事を済ませて、延命寺を打ち終え、市営墓地を通り抜け南光坊へと向かいました。
南光坊は大師堂の工事も済んでおり屋根が綺麗になってました。泰山寺に行く途中で、ゲートボールを楽しんで居られた方たちから、昼御飯の接待をいただきました。御馳走様でした。
泰山寺では 赤杖の2人が、後から参られていつの間やら居なくなってる。昇補の為に回数のみを稼ぐ、寺に行った判取りゲームを見る様であった。公認先達の意味、任務を全く理解して無い。先達は他の巡拝者を誘って初めて公認先達の意義があるのでは無かろうか。
泰山寺、永福寺と打ち終えて、仙遊寺山門に14時に入りました。途中にある加持水で喉を潤し、最後の階段を上がりきると、御大師様が出迎えて下さいました。
私が四国遍路を始めた頃は本堂裏手の車道はやっと出来たばかり。その頃は、眼下には一面の田園が広がり、秋には小金の波が目いっぱいに広がり、見事に綺麗で有ったのを覚えてます。山門の仁王様も 未だ本堂脇にありましたよ。
仙遊寺を後にして、国分寺へと階段を降り山を越えて歩みを進めますが、1日の終わりに近い山道、長く続く階段状のの下り坂はきついですね。

16時18、分59番国分寺に到着。
山門の手前にタオルの土産物を売る御店がありますが、この店の主人、何時も「南無大師遍照金剛」と唱えながら、お接待を店の前を通る巡拝者皆さんにされてますが、中には避けて通ったり、要らないと手を横に振り逃げる方がいます。公認先達がついて案内をしてるのに先達は基本のマナーをキチンと身に就けて、先達の任務を全うして欲しいものです。
因みに、お接待をされてる方は布施業されているのですから、御断りせずに「有難う」と言いつつ御受取下さい。接待の返礼に自分の納め札を渡すのも忘れない様にして下さい。「白の御札」でも臆せずにお渡しください。
そうする事により彼方も布施業のお手伝いをする事が出来るのですよ。お接待を拒否する事は、十善戒の中にある戒めの不盗に値する事になります。何故ならば 布施業の「ジャマ」をすることになるからです。そうならない様にありがたくいただいて下さいね。
国分寺を打ち終えて伊予桜井駅から、18時30分発、今治行きに乗換て松山へ、又乗り換えて、内子着19時54分着。乗り継ぎは時間が掛かりますね。そこから車を預けてるローソン迄行き、家路に向かう。

 
円明寺山門
 
日本最古の銅版の納め札
仙遊寺山門14 時着
 
国分寺本堂16:18着
 
 
宗教法人 不動院 
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